ネットワーク管理に携わる方なら、「Cisco ISE(Identity Services Engine)」という名前を一度は耳にしたことがあるでしょう。多くの企業で、社内ネットワークの「門番」として導入されています。
しかし、「ISE=802.1X認証のサーバー」という認識で止まっていないでしょうか?
実は、現代のCisco ISEは、単なる認証サーバーを遥かに超えた、企業のセキュリティ戦略の中核を担う「ポリシーエンジン」へと進化しています。そして今、クラウド化とゼロトラストの波の中で、その役割が再び大きく変わろうとしています。
この記事では、Cisco ISEが「何者」であり、どのような価値を提供し、そしてどこへ向かっているのかを、実例を交えながら解説します。
1. ISEの中核:「あなたは誰? そのデバイスは安全?」
ISEの基本的な使命は、ネットワークに接続しようとするユーザーとデバイスを識別し、適切なアクセス権を与えることです 。
従来のネットワークが「社有PC」だけを管理していればよかった時代は終わりました。今は、訪問者の使う「ゲストWi-Fi」 、従業員が持ち込む「私物端末(BYOD)」、そしてプリンターやIP電話、さらには工場のセンサーといった無数の「IoT/OTデバイス」 まで、あらゆるモノがネットワークに接続されます。
ここでISEは、単純なIDとパスワード(AAA) だけでなく、アクセスの「コンテキスト(文脈)」を見て判断します 。
- Who(誰が): 従業員か、ゲストか?
- What(何を): 社有PCか、私物スマホか、IoTセンサーか?
- Where(どこから): 社内か、社外か?
- When(いつ): 業務時間内か、深夜か?
これらの情報を基に、「従業員が社有PCで接続してきたから業務サーバーへのアクセスを許可する」「ゲストが私物スマホで接続してきたからインターネット利用のみ許可する」といった、きめ細かなポリシーを動的に適用するのです 。
2. ISEの実力:スマートファクトリーとゲストアクセスの現場
ISEの真価は、複雑な現実世界の課題を解決する場面で発揮されます。
シナリオA:スマートファクトリーのセキュリティ(ITとOTの融合)
製造現場(OT環境)には、IT部門の常識が通用しない特有の課題があります。例えば、工場のラインで稼働する専用端末が、サポートの切れた古いOS(Windows XPなど)で動いているケースです 。
これらの端末は、業務の都合上パッチを当てられず、アンチウイルスソフトもインストールできません 。もしこの端末がマルウェアに感染すれば、工場全体のラインが停止する大惨事につながりかねません。
ここでISEは、以下のステップでリスクを封じ込めます :
- 識別(プロファイリング): ISEは、ネットワークに接続された端末が「あのラインの古いOSの端末だ」と自動で識別します。
- 隔離(セグメンテーション): 識別した端末に対し、「許可された特定の製造サーバーとのみ通信可能」という厳格なポリシー(TrustSec/SGTと呼ばれる技術)を適用します。
- 自動対応(エコシステム連携): さらに、万が一その端末が不審な通信(マルウェアの拡散など)を始めた場合、連携する脅威検知システム(Stealthwatchなど)がそれを検知。即座にISEに通知が送られ、ISEがその端末をネットワークから自動的に隔離(遮断)します 。
これにより、端末自体に手を加えることなく、ネットワーク側でセキュリティを確保し、被害の拡散を最小限に抑えることができます 。
シナリオB:安全なゲストアクセスとBYOD(私物端末)
訪問者(ゲスト)にインターネットを提供しつつ、社内システムには一切触れさせないようにするのは、セキュリティの基本です。
ISEは、ゲスト専用のWebポータル(キャプティブポータル)を提供 。ゲストがアクセスすると、まず「ウォールドガーデン(壁に囲まれた庭)」と呼ばれる隔離エリアに誘導されます 。このエリアからは、認証に必要なサーバー(ISE自身やDNS) にしか通信できず、社内ネットワークへのアクセスは完全に遮断されます。認証が完了して初めて、インターネットへのアクセスが許可されます。
また、従業員のBYOD(私物端末) に対しては、さらに高度な「オンボーディング」プロセスを提供 。従業員がAD認証を行うと、ISEが自動でそのデバイス専用のセキュリティ証明書を発行・インストールし、安全な従業員用Wi-Fiに接続させることができます 。
3. 導入の「落とし穴」:なぜISEは難しいと言われるのか
これほど強力なISEですが、「導入が非常に難しい」製品としても知られています。ある中小企業の事例では、機器の費用と同額の導入支援(プロフェッショナルサービス)費用が見積もられています 。
その理由は、ISEが機能するために、RADIUS、Active Directory連携、ネットワーク機器(スイッチやWLC)の設定など、広範な知識が要求されるためです 。
特にプロジェクトの成否を分けるのが、「証明書(PKI)」の設計です 。
Ciscoの技術サポート(TAC)が指摘する最大の「落とし穴」の一つは、複数のISEサーバー(PSN)で異なる証明書を使ってしまうことです。これを行うと、特にiPhoneなどのデバイスがWi-Fiローミングする際に認証失敗が多発する原因となります 。
ベストプラクティスは、ロードバランサーの背後にある全てのISEサーバーで、単一のWildcard証明書(例:*.ise.yourcompany.com)またはMulti-SAN証明書を使用することです 。また、ゲストポータルのようなユーザーが触れる画面には、信頼されたパブリックCAの証明書を使うべきです(自己署名証明書は避ける)。
4. ISEの未来:「NACは死んだ」のか? Universal ZTNAへの進化
今、セキュリティ業界では「NACの時代は終わり、これからはUZTNA(Universal Zero Trust Network Access)だ」という声が高まっています 。
- NAC(従来): 社内(オンプレミス)のネットワーク境界を守ることに焦点 。
- ZTNA(次世代): ユーザーがどこにいようと、「ネットワーク」ではなく「特定のアプリケーション」へのアクセスを、都度厳格に検証する 。
ハイブリッドワークが主流となり、アプリがクラウド(SaaS)に移行した現在、オンプレミス中心のNACでは不十分になったのは事実です 。
では、オンプレミスNACの代表であるISEは、時代遅れの「レガシー」製品として消え去るのでしょうか?
Ciscoの答えは「No」です。
Ciscoは、ISEを「置き換える」のではなく、自社のUZTNA戦略(「Hybrid Private Access」と呼ばれる) の中核コンポーネントとして「再定義」しています。
この新しいアーキテクチャにおいて、ISEの役割は以下のようになります :
- オンプレミスの「ID・コンテキスト」の源泉: ISEは、キャンパスやブランチ、工場(OT)など、オンプレミス環境に接続されるすべてのデバイス(PC、IoT、OT端末)を識別し、コンテキスト(SGTというタグ)を割り当てる「権威ある基盤」として機能します。
- クラウドとの連携: ISEがオンプレミスで生成したこの豊富な「コンテキスト(SGT)」は、Ciscoのクラウドセキュリティ(Cisco Secure AccessなどのSSE)とリアルタイムで共有されます。
- 単一ポリシーの実現: 管理者は、「『従業員』タグ(SGT)は『業務アプリ』へのアクセスを許可」といった単一のゼロトラスト・ポリシーを作成します。このポリシーが、クラウド(リモートワーカー向け)とオンプレミス(社内デバイス向け)の両方で一貫して適用されるのです。
つまり、ISEは「レガシーな門番」として死ぬのではなく、ハイブリッド環境全体のゼロトラストを実現するために不可欠な、オンプレミス側の「ID基盤」として、その重要性を増しているのです 。
結論
Cisco ISEは、単なる認証サーバーから、IT・OT環境の複雑なリスクを管理する強力なポリシーエンジンへと進化しました 。その導入は決して容易ではありませんが 、ネットワークの「今」を守るだけでなく、クラウドと融合する「未来」のゼロトラスト・アーキテクチャ にとっても不可欠なピースであり続けています。
あなたの会社の「門番」は、未来の変化に対応できる準備ができているでしょうか
コメント